佐久間勉艇長

 1910年(明治43年)4月15日、広島湾沖で佐久間勉艇長乗り込みで訓練中の
潜水艇遭難事故が起き、数日後、引き揚げられました。

 潜水艇の遭難事故はヨーロッパでも度々起き、引き揚げられた艇のハッチを開けると多くの場合、其処には多くの乗組員が殺到していました。

 佐久間艇内で、艇長の佐久間は司令塔で指揮を執る姿勢の侭に息絶え、舵手はハンドルを握った侭、各々自分の持ち場を離れずに絶命していて、とりわけ取り乱した様子が無かったのです。佐久間艇長が苦しい息の中で記した遺書には、部下を死なせてしまった罪を謝し、部下が最後まで沈着に任務を尽くした事。又、此事故が将来、潜水艇の発展の妨げにならない事、更に、沈没の原因とその後の処置について書き、最後に明治天皇に対し、部下の遺族の生活が困窮しない様に懇願していました。死の直前に、取り乱さないばかりか、後世のために遺書を記していた事は誠に驚きでした。

 英新聞『グローブ』紙は「日本人は肉体的に優秀であるばかりか道徳上、精神的にも又勇敢であることを証明している。古今、此の様な事は世界に例がない」と驚嘆、又、各国の駐在武官は、詳細な報告を本国に伝えるとともに、海軍省を訪れて弔意を表明しました。是等は通常の外交儀礼を遥かに超えたものと謂われます。

 明治天皇からは、遺族にお見舞金を届けられるという特別の計らいが執られました。海軍省朝日新聞によって義援金の募集が行われ、現在の価格では10億を超える56,000円が全国から寄せられました。
 この事件は、今では語られる事も無く、佐久間勉の名前を知る人も殆ど居ません。然し、当時は国内のみならず、世界の人々に感動を与えたのでした。(入川智紀氏に依る)