Sさんの満洲回顧 ペチカ

 旧友の家の中央には大黒柱を兼ねた直径1m程の耐火煉瓦製ペチカが在り、何でも燃やせた。当時生産されていた合成樹脂はベークライトとスフ・人絹位のものだから、要するに金属製品以外は何でも燃料に成ったのである。燃やすと言えば、屋外の焚き火も風向きの都合で煙い事は有ったが、ダイオキシン等は全く知られて居なかった。一度、庭の落ち葉等を集めて焚き火をして薩摩芋を焼いた事が有るが余り芳しい首尾ではなかった。
 ペチカの薄い黒緑色ペンキ塗り鉄板製の円筒型外壁の4分の1と2分の1が各部屋に露出して満遍なく暖めていた。内部に積まれた耐火煉瓦の層が厚いのでペチカの壁は触っても熱くはなく、ほのかに温かい位だった。今で謂う遠赤外線暖房である。
 焚き口は茶の間に在った。石炭も焚いたが紙屑や古本等もくべられた。
 ペチカは熱慣性が大きいので一度部屋が暖まると後は殆ど燃やさなくても暫くは暖気が残った。新京も奉天も錦州も左右だが、コンクリートや煉瓦の建物は一度部屋が暖まり陽射しが入れば相当の時間は殆ど暖気を補充する必要は無い。日本も戦後暫くは隙間風が極く普通で、夏は良いが冬は燃料が不経済でいけなかった。所が、マンションとやらで気密性と熱の保持性が良く成ると、今度は高い気密性が仇に成り、如何かすると酸欠の危険性が出て来た。世の中は仲々に侭ならないものだ。