修行

 世界中の宗教には修行を課するものが多い様です。私は修行を否定はしませんが功徳は信じません。機会が無いとか身体が虚弱であるとか旅費が無いとか修行に向かない者は天国に行けないと言うのは弱者差別の思想です。可能なお坊さんが衆生済度の為に修行をすれば足りるのなら賛成です。タイ仏教の坊さんやヒンズー教の行者に対する民衆の心情はイエスに対する尊敬と感謝に似た趣が有る様ですが私の誤解でしょうか。基督教ではイエスが全ての人間の罪を背負った筈なのに、派に依っては非人間的な修行を強制するのは奇怪です。耶蘇の聖書は新旧合わせて詩編以外は3回通読しました。神を信ぜよとは書いてありましたが天国へ行くには誰にも修行が必要だとは書いてなかったと記憶して居ます。イスラムの断食は趣旨は判らんでも有りませんが現在の在り様は返って教祖の理想からは外れている感じがします。

 修行と言えば世界中の何宗でも女は修行の妨げに成ると云うのが多いですね。イスラム等での女の扱いは修行の妨げよりも、古くに珍しくなかった婦女子略奪予防からの習慣に思えます。日本の仏教施設にも女人禁制は珍しくありませんでした。是は性欲が最も基本的な欲望の一つで在り否定の難しいものである事を物語って居ます。又、男にとって女の性情が仲々に理解し難く、当時が男社会で在る事を奇貨として女は人類として扱わない方が面倒でないと考えた物臭の結果でもありましょう。釈迦は女が修行の妨げに成るとは一言も言いませんでした。悟りの直前には少女の喜捨する牛乳を飲んだのです。解脱の為には修行で煩悩を祓う必要が有ると云うのですが、之は基本的に間違いであり、煩悩を其侭認めないなら自分の出自を否定せざるを得ません。女から生まれ乍ら女を否定すると言うのは人間の否定です。社会的生物としての人間の特性で最も非社会的なのは過剰な攻撃性向丈ですから其制御を巧く理由付ける丈で事は足りましょう。

 肉食妻帯を禁じた日本仏教は「がんもどき」を発明しました。豆腐を主原料に雁の肉を模した食物です。仄聞する所に依ると、斯うした腥(なまぐさ)物には大抵の模造品が有るそうで、坊主の肉類に対する執心の程が偲ばれます。マ、祇園の経営は坊さんの喜捨で賄われるそうですから目角を立てるのは止しましょう。

1994年8月27日
 山形県羽黒町の山伏修行で札幌市豊平区の69歳男性が急性心不全で死亡しています。
例の爺さんは「修行で悟れるとは迷信、修行不可能者に救いが無いとは釈迦の慈悲に反するべや」と主張します。