富士山測候所

富士山測候所
 野中 到(1867年9月19日(慶応3年8月22日)〜1955年(昭和30年)2月28日) 日本の気象学者。妻・千代子と共に富士山頂で最初の越冬観測を試みました。
 1895年(明治28年)1月と2月に富士山頂通年観測の準備のため冬季登山を行い、8月30日に富士山頂に私財を投じて日本最初の富士気象観測所を建設。10月1日に妻千代子と共に気象観測を開始しましたが12月22日、高山病と栄養失調で歩行不能になり、越年観測を断念し下山しました。其後も絶えず登山して観測を続け、野中の事業は後に中央気象台に引き継がれました。

 新田次郎1912(大正元)年6月6日〜1980(昭和55)年2月15日) 日本の小説家、気象学者。
1932()年 - 中央気象台富士山測候所に配属。
1943年 - 満州国観象台(中央気象台)に高層気象課長として転職。
1945年 - 新京でソ連軍の捕虜となり、中国共産党軍で一年間抑留生活を送る。此時期の、家族引き揚げの体験を妻・ていが『流れる星は生きている』として作品化。
1946年 - 帰国。中央気象台に復職。
1963年 - 富士山気象レーダー建設責任者となり、2年間で建設を成功させました。

臨時富士山測候所
1932年に開設され、通年測候が行われました。
1999年に、気象衛星の発達や、長野レーダー・静岡レーダーの設置などで必要性を失った為、レーダー観測が廃止されました。
 2004年に自動観測装置が設置され無人施設となり、気象観測(気温、気圧、日照時間(夏季のみ))は継続して行っていますが、風向・風速の観測については、観測装置のメンテナンスが困難なため廃止されました。(Wikipedia等)

 現在はアメダス等測定環境の発達で、昔の過酷な条件に立ち向かい、欠測ゼロを目指した気象観測員魂も昔語りに成りました。
 他の方面での「魂」の衰弱を感じる人々が色々と意見を述べています。