凄い男の子

 小学校同期に凄い男の子が居た。
 陽がカンカンと照る夏の或日、広場に白いむく毛の縫いぐるみの様な仔犬が紛れ込んできた。
 男の子は其れを両手で掴み空に放り投げた。
 地面に落ちてキャンと鳴く、又投げる、又鳴く。
 何回か繰り返すと段々声が小さくなり遂に鳴かなくなった。
 男の子は死んだ仔犬を林の中に持って行き、ガラス片か何かで片方の目玉を傷付けずに器用に抉り出し、瞳を林の向こうの明るい方に向けて後ろの方を私に見せた。作業中に大して血を見なかったのが何故か判らない。死体からは余り出血しないのだろうか。
 薄桃色の眼球後方表面に向かいの景色が逆さに綺麗に映って居た。
 小学2年生にして目玉とカメラの原理が同じ事を知って居たのだ。
 其子は又或日、余所で飼っている雛の頚を引っこ抜いて歩き、雛の体が痙攣するのを見て楽しんで居た。
 此子が其後如何育ったかは知らない。

 幼児には、教えなければ残忍と言う観念は無い。依って人間は性悪説が正鵠を射て居り、其故に残酷な所行は悪との教育が必要なのだ。テリトリー外に逃げた敵を尚追跡して殺す習性は人間以外の動物には無い。ヒトは此習性が同族に及ぶのを回避する為に道徳を発明したが、同族の為にはテリトリー外の敵を殺す事が手柄だと言う矛盾した哲学を容認するしか方法が無かったので古今東西の教祖や哲学者が悩むのである。