殉死

 西南戦争西郷隆盛を首領とする薩摩軍が熊本城を包囲しました。乃木希典率いる主力は熊本城の植木で薩摩軍と遭遇、戦闘は凄まじい白兵戦となり、乃木軍は「連隊旗」を敵に奪われて仕舞いました。軍旗喪失という失態を犯したことは、乃木の心に重くのしかかりました。乃木は恥辱の余り、自分から死地に何度も入り、敢えて薩摩軍の正面に立ち、敵弾に当たり死のうとしました。この乃木の異常な行動は軈て明治天皇の上聞にも達しました。明治天皇は「乃木を殺してはならん」と前線指揮官の職から外すように命ぜられました。明治天皇は乃木の責任感の強さに対して深く人間としての信頼の念を寄せられたのでしょう。後年、乃木は明治天皇の後を追って殉死を遂げる際、この軍旗喪失への謝罪を遺言の第一に挙げています。
 日露戦争での203高地攻略戦では乃木希典の次男・保典も戦死し、乃木は自作の漢詩203高地を二〇三(に・れい・さん)の当て字で爾霊山(にれいさん=お前の霊の山)と詠みました。
 明治天皇御大葬の前日、明治45年(1912)9月12日夕、日露戦争の輝ける英雄、乃木希典将軍(63歳)は夫人と倶に殉死を遂げました。

 

 後年、有る作家が、乃木大将は人間は出来て居たが、軍人としての資質には欠ける所が有ったのではないかと書いて居ます。