大丸創業300年

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【関西の議論】あの大塩平八郎も認めた「義商」 大丸創業300年、焼き討ちを回避させた「先義後利」の精神
2017年11月20日 12時7分 産経新聞

百貨店「大丸」が今年で創業300年を迎えた。江戸中期の享保2(1717)年に創業してから長らく大阪に本社を構え、文字通り「大阪の大丸」というイメージが強いが、実は京都が発祥の地だ。地元・京都を中心には創業300周年イベントが相次ぎ行われている。歴史をひもとくと、天保8(1837)年、大坂で発生した大塩平八郎の乱で、大塩が「大丸は義商なり」と語り、店舗の焼き打ちを免れたエピソードも伝わる。創業者が唱えた社是「先義後利」で幾多の苦難を乗り越え、今がある。(西川博明)

 この店舗から約1.5km離れた四条通沿いにある大丸京都店(京都市下京区)では同じ9月の週末、故オードリー・ヘプバーンさんの孫で、女優・モデルのエマ・ファーラーさんが来日し、トークショーを開催した。これも創業300周年を記念し、大丸の全国主要各店で開かれた「ヘプバーン展」の一環だった。

 大丸の歴史を繙くと、創業は江戸中期の享保2年に遡る。8代将軍、徳川吉宗の時代。業祖である下村彦右衛門正啓が、交通の要所だった京都・伏見に、呉服店「大文字屋」を開いた。享保11年には、現在の心斎橋店(大阪市中央区)がある場所に大坂店を開業。その2年後には名古屋店を開き、ここで初めて「大丸屋」と名乗った。寛保3(1743)年には、江戸・日本橋大伝馬町に江戸店を開業した。
 経営の考え方の軸となる言葉が大丸内に浸透している。元文元(1736)年、社是「先義後利」が全店に布告された。

 この言葉は中国の儒学の祖の一人、筍子の「義を先にして利を後にする者は栄える」という言葉から引用されたもので、企業の利益はお客や社会への義を貫き、信頼を得ることで齎されるという意味がある。現在は「お客さま第一主義」「社会貢献」という意味で経営に生かされている。

 こうした社是が、経営の危機を救った。中学生の歴史教科書で習う天保8(1837)年の大塩平八郎の乱。飢饉により全国各地で百姓一揆が起こる中、大坂でもコメ不足に陥り、大坂町奉行所の元与力、大塩平八郎らがコメ買い占めを図る豪商を襲う幕府への反乱だった。平八郎は大丸に対しては「大丸は義商なり、犯すなかれ」と仲間に指示。大丸は店舗の焼き打ちを免れたと伝えられる。大丸が「先義後利」の理念で、貧しい人に食事や古着などを提供する「ボランティア活動」を実践し、利益を社会に還元する取り組みが知られていたためだ。

 明治に入って東京店や名古屋店はいったん閉鎖したものの、発祥の地・京都では明治45(1912)年、現在の京都店がある四条高倉に新店をオープンした。大正時代には百貨店となり、週休制(月曜定休日)を導入。戦後の昭和28年にはクリスチャン・ディオールと独占契約を結ぶなど、百貨店業界初の試みを相次ぎ打ち出していた。

 昭和36(1961)年には国内の小売業界で売上高ナンバーワンを達成し、43年まで業界トップの座を維持。海外出店も果たした。平成7(1995)年の阪神大震災で神戸店(神戸市中央区)が被災したが、「先義後利」の精神で幾多の苦難を乗り越えてきた。
 バブル経済の崩壊なども経営悪化の一因となり、売上高に対する本業の儲けの比率(営業利益率)は一時1%程度に低迷。経営改善に取り組むため、9年に奥田務氏(現J・フロントリテイリング相談役)が社長に就任。部下に「未来の百貨店像」のあり方の策定を指示し、百貨店業務の無駄を徹底的に省き、経営の効率化を推進した。かつて勤務した豪州の店舗を閉鎖するなど、収益改善に荒療治を施した。

 大丸は昭和62年、神戸店の周辺にある旧外国人居留地にある古いビルを再活用して店舗を出店した。周辺地域に投資し地域と一体となって集客する手法は、まさに「先義後利」そのもので、心斎橋店、京都店の周辺店舗にも生かされている。心斎橋店の周辺では一時、悪質な客引きが横行していたが、「百貨店周辺にふさわしい店舗を誘致する」(山本良一J・フロント社長)という考えで、心斎橋をぶらりと歩いて楽しむ「心ぶら」復活への取り組みを進めてきている。

 発祥の地・京都でも、祇園町家の再活用だけでなく、京都店の周辺に東急ハンズを誘致。今月にはJ・フロントグループのパルコが運営する新しい商業ビル「京都ゼロゲート」が大丸京都店の隣接地に先行開業した。

 大丸京都店の北川公彦店長は「地域の方々に愛される店舗周辺の開発に今後も積極的に取り組んでいきたい」と語る。こうした理念の継承が、大丸、そしてJ・フロントリテイリングの新たな歴史を作っていくことになる。