寿産院事件

事実

 寿産院事件とは1944年(昭和19年)4月から1948年(昭和23年)1月に掛けて東京都新宿区で起こった嬰児の大量殺人事件。推定被害人数は85人から169人の間とされる。
WW2後のベビーブームの折り、大量の嬰児が寿産院に預けられていたが、同院では嬰児に対する虐待が常態となっており、また、凍死、餓死、窒息死など様々な死因で亡くなっていた。寿産院を経営する夫婦は乳幼児を貰い受ける等とした新聞広告等によって200人以上の乳幼児を集め、親から1人につき4000円から5000円の養育費と東京都からの補助金と配給品を受け取り乍ら配給品を闇市横流しする等して食事を碌に与えず嬰児を死亡させた。

経緯

 1948年(昭和23年)1月12日、パトロールしていた警官2人が偶然に東京・新宿区弁天町で夜中にみかん箱を運ぶ葬儀屋に対し事情聴取を試み、其中に嬰児の死体4体が入っていることを確認した。1月15日、新宿区柳町で「寿産院」を経営する主犯の石川ミユキ(当時51歳)と夫の猛(当時55歳)が殺人容疑で逮捕された。ミユキは東大医学部産婆講習科を経て産婆となり、牛込産婆会の会長を務めていたほか、新宿区議会議員選挙に出馬したこともあった(落選)。猛は以前に憲兵軍曹や警視庁巡査も務めた。葬儀屋は釈放されたが、夫婦と助手の3人は起訴され、診断書を偽装していた医師も起訴された。

 死亡届を簡単に受理していた新宿区役所の態度にも疑問が示されたが、当時の新宿区区長や当該課長は「書類を見て判断した」とコメントした。(Wikipedia)