Sさんの満州回顧

ロシアの食べ物
 新京に居た時、白露人のビタリー家で日本人には珍しいだろうと言われ何回か黒パンを御馳走になった。原料がライ麦だとは随分後迄知らなかった。白いメリケン粉で作った筈なのに如何してそんな色に成るのか不思議に思った記憶が有る。ライ麦が原料と知ったのはLSDライ麦に着く麦角菌由来だと知る前後の事だから相当に最近の事だ。
 黒パンは薄い黒紫色で甘酸っぱく美味いと思ったが余程後に貧乏人の専用と聞いて変だなと思った。先入観が無ければ、余程の悪味で無ければ大抵の物は「之は、こんな味かね」で済むものだ。日本人は蟻や源五郎や蜥蜴を喰うのを下手物と言うが、蝗の佃煮だって立派な下手物である。有名なスエーデンの鰯だったかの缶詰は世界に冠たる臭物で、本国人でさえ辺りを憚って厳重なテントを張った中で食すると言う代物である。日本人にも知られる支那料理の一つ「ピータン」の本物は家鴨の茹で卵をドブ泥の中に暫く浸けて置いて作られると謂われるが怪しい。
 同時に御馳走になった瓶詰のピクルスは非常に固い歯応えと、強い酸味に心地よい風味が有り美味かった。生協のピクルスの味は本物に及びも付かない。ピクルスでも、ピザでも、キムチでも日本人は器用に作るが原産地の現物に比べれば微妙な味わいは見事に違う。支那料理や印度料理やイタメシだって、日本の店の物は「日本人好み」にアレンジされて居るのは知る人ぞ知る。
 ロシアには、冬の長い国なので野菜や果物の保存には世界に自慢して良い智恵の持ち主が沢山居る。兎に角何でも調味料と共に瓶詰にするのが得意らしい。一般家庭で必ず出ると言う酢キャベツは未だ食して居ないが、多分、そんなに臭気の強い物ではあるまい。ピクルスの経験からは相当に爽やかな酸味が期待される。
 私は国民学校の3年生からは新京を離れているので、70年で敢え無く潰えた赤色革命から逃れて満州に流れて来た所謂白系露人の彼らが其後如何しているかは判らない。70年は歴史としては短いが、どうかすると3世代を閲するので年齢層に依っては共産党支配が永遠に続いて居た様な錯覚も有り得る。伯林の壁が崩壊して唐突に民主主義だと言われても戸惑う人々が居たのも当然だ。混乱期には抜け目の無い者が跋扈するのが古今東西の常で、1999年現在でロシア経済の7割はマフィアの支配下に在ると言う説も有った。