ノーベル賞

 北里柴三郎はコッホの下で破傷風菌の研究をし、その後エミール・アドルフ・フォン・ベーリングとともに血清療法を確立しますが、その功績で1901年の第1回ノーベル生理学医学賞を受賞したのはベーリングだけでした。
 是には、脚気の病原菌説の立場に在る軍医総監だった森鴎外が、病原菌説を間違いとした北里柴三郎を徹底的に虐めたのが一因との説が有ります。
 ビタミンの発見は鈴木梅太郎が先でしたが、上の様な経緯も有り、農家の生まれで帝国大学農学部出身であった鈴木に対する偏見があったと謂われます。農学部出身学者が医学部出身学者を差し置いて、ノーベル賞を受賞したのでは医学部の面子が立たないということで、帝国大学が鈴木ではなくホプキンズを推薦したのです。
 他にも色々な例が有りますが戦後で最も残念なのは、光ファイバーでしょう。東北大学時代に西澤順一が光ファイバーを特許申請しましたが、当時の役人が内容を理解出来なかった為にオクラとなり、ノーベル賞は米国に行って仕舞いました。20世紀後半に日本人が次々とノーベル賞を獲得しているのを見て、泉下の先達たちはどんな感想を持つのでしょうか。